株式会社 ディ・エス・ディコンストラクション
DSD建築設計事務所
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福祉建築への歩み
   
DSD ( Design System for the Disabled ) は
“介護を必要とするひと・介護をするひとのための住環境を考える研究会”
から生まれた設計研究事務所です。私達は公共福祉施設や一般住宅の
住環境の改善を提案しています。
* 研究
1977年
1979年
1982年
1985年
1997年
日本建築学会、ハンディキャップ者委員会 設立委員
日本建築学会「ハンディキャップ者を考慮したまちづくりはどうなっているか」 研究協議会
通産省 新住宅開発プロジェクト「高齢者・身体障害者ケアシステム技術の開発」
武蔵野市コミュニティー市民委員会 委員
DSD住宅改善システムの提案
* 障害者福祉活動(武蔵野市)
1978年
1981年
1990年
2006年
重度肢体障害者共同生活寮を作る会 設立事務局長
心身障害者通所訓練事業所「愛と和の家」 設立事務局長
障害者の自立とグループホームをすすめる「レンガの会」改称 事務局長
グループホーム「レンガの家」竣工
 
「高齢化時代の住まいづくり」彰国社共著より抜粋
JR吉祥寺駅前広場などで年三回開かれた花売り、多くの学生・主婦ボランティアの協力で完売しました。
 東京都武蔵野市で私が関わってきた車いすを利用する重度の障害者は、年による体の機能低下に加え、介護者である親の高齢化に伴い、親の死後一体自分達はどうしたらよいのだろうという強い不安にさらされてきた。そして互いに助け合って生きていく生活の場を、自分達が生まれ育った地域に作りたいと願って、昭和五十三年から共同生活寮を作る会がスタートした。ちょうど私が大学院を出る一年前、身体障害者の生活・住環境をテーマとした研究と設計に取り組んでいたときであった。  
 障害者の現実の生活を知ろうと、障害児を持つ親のグループとつながりを持ち、時には、電気ドリルとステンレスパイプ(これは二十七ミリ径ほどがよい)を車に積み込んで、障害者の家のトイレや風呂場などに手すりを付けて回ることもあった。こうして家庭の中に入ってみて思い知らされたことは、障害者が望んでいたものは、決して大掛かりな機械や装置だけでなく、車いすでも自由に動ける板の間と、必要なところに的確に取付けてある手すりということだった。そして、こうした手すりがどれほど彼らの生活の支えになっているかということも…
十周年を向えた会の記念事業として市民文化会館を満席にして「愛あいコンサート」が開かれ、グループホーム建設を市民の皆さんに訴えました。
 「話があるから時間をとってほしい」、そういわれて約束の日に障害者Kさんの家を訪れた。そこには以前から彼女を介護していてくれた数人の婦人ボランティアが待っていて、早速に相談を持ちかけられた。「障害者の共同生活の場を作りたいが……」ということだった。共同生活寮。この建設に向かって私達の運動の第一歩は、Kさんが毎日寝起きしている八畳の部屋からだった。
 きっかけは重度障害者であるKさんの母親の入院だった。父親は脳卒中で倒れ、自宅静養中、弟には勤めがあり、共にKさんを介護できない状態にある。こうなって初めて、日頃の母親の役割の重大さに気付き、同時に、もしも母親がいなくなったらという問題にも直面することになった。その後二か月もたたないうちに、この問題の輪はM市を中心とした在宅の肢体不自由者一五-六人とその親、ボランティアに広がり、三十人ほどのメンバーでこの会はスタートした。
 この会の十年間の歩みは新しい施設づくりの困難さを教えてくれるに充分だった。当初2000名の署名を添えて共同生活寮建設に向けての請願書を市議会に提出し、満場一致で採択されたときは、これで一気に建設への弾みがつくと一同大喜びをしたものだった。だが、現実にはそれほど簡単には事が運ばなかった。
武蔵野市内を駈け巡り、古紙などの廃品回収を多くの市民の協力を得て行い、グループホームの資金造りとなりました。
 そして、ここからより多くの市民にこの問題を知ってもらい、理解と応援の得るための様々な活動事業を企画し、共同寮建設の実現に向けて、障害者とボランティアの血のにじむ活動が始まった。"愛の花束売り"、これは年三回生花市場から新鮮な花を仕入れ、自分達で水切りし花束にする。そして市内の駅ビルの正面広場を借りて、車いすから街行く人に呼びかけている。"廃品回収事業"、これは古紙や空き瓶等を集め、代わりに組織の紹介と回収実績のチラシを各家庭に手渡す。二-三人で始めたこの回収も、既に二〇人以上の若いボランティアの力を借りて、市内六〇〇世帯余りを月に一-二回、五-六台のトラックで回るほどになった。
 このような活動で集まった資金と、行政からの補助金とで、六年前に共同生活寮の前身として、日常生活訓練と作業を行なう場を開設した。といっても、行政の建物は貸してもらえず、自分達でアパート探しをしなければならなかった。しかも、行く先々で障害者、車いすと言っただけで断られもした。幸い、会員の中からアパートを貸してくれる人がでて、六畳と四畳半の心身障害者通所訓練事業所がようやく産声を挙げた。
機関紙「家」のタイトルは重度障害者の自筆による夢と希望の表れで、多くの賛助者のもとに届けています。
 最初の一年間、所員達は近所の人達の白い目にさらされながら、あるときは寝たきりの所員のおむつを干していて、近所から不衛生だから取り込んでほしいという苦情が舞い込んだりした。しかし、所員達は毎朝ボランティアの運転する車の窓から元気な顔をのぞかせ、周囲の人達への挨拶を欠かさなかった。そして、この訓練所もすでに六年がたち、近所の人達からもすすんで古紙等を持ってきてくれるようになって、温かいコミュニティの輪が広がった。
 だが、共同生活寮建設への志半ばにして心配していた時が来てしまった。仲間の重度障害者の七九歳になる母親が、駅校内で転倒し入院した。母親は長年にわたる介護疲れも重なり、体も衰えここ数年何度となくダウンし、その都度、職員が共に寝泊まりをして、娘の介護をして急場をしのいできた。だが、今回の母親の長期入院と、退院しても再び娘の介護は無理となったため、以前より行政から勧められていた施設入所を決断せざるを得なかった。そして、長い間住み慣れたこの街を去って行く日が近づいた。
 街医者的な建築家としてこの運動に関わってきた自分に、一体何ができたのだろうか。長い運動の過程で獲得したものは、多くの市民の温かい心であり力であったが、たった一人の障害者が、生まれ育った地域で生活していくことすら可能にできなかった。既に出来上がった土俵で腕をふるうことはたやすい。だが、地域の人達とともに真剣に考え、障害者自らが自立し社会参加していくための住環境や施設を作り上げるには、まだまだ力不足だ。
 長い障害者との関わりの中で、私達を取り巻く住環境の貧しさが目についた。車いす一台家の中に入れる事すら不可能なのである。健康な人達は多少の狭さや使いづらさがあっても、慣れとして吸収してしまうが、体の不自由な人達にはそうはいかない。
  活動記録等(高齢化時代の住まいづくりより抜粋)
彰国社共著
 

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